胎界主シンボル【魚・指輪・クローバー・靴・足・ライオン・ウサギ・象・球・手】

 

 

 西洋美術におけるシンボルと胎界主

胎界主には様々なシンボルが散りばめられています。そのシンボルについて、古今東西の美術に通暁していればぱっと思いつくようなことも、知らなければ想起することは叶いません。資料を参照することによって、新たな解釈または足場をつくることで、より胎界主にひたりつくことができるように書きました。

魚 Fisch 89ー90頁より引用

魚は古代より水のシンボル、したがって生命のシンボル、豊穣のシンボルであり、また幸せのシンボルだった。こうして魚は、数多くの文明圏の数知れぬメルヘンの中で、失われた指輪を取り戻すことになる。この意味で魚はお守りとして用いられた。(中略)魚は、キリスト教圏では、4世紀末まで、キリスト教の重要なシンボルの一つだった。魚のシンボルは、福音書記者(人間をとる人、奇跡の漁獲、ノアの洪水は水中動物とは無縁だった)との関連で、洗礼を済ませたキリスト教徒のシンボルとなったと思われる。(中略)洗礼の水の中では、キリストは魚となり、受洗者は小魚となる。「(しかし私たち小魚は、私たちの中の魚である水中のキリストに倣って、水中で生まれる」

 

指輪 Ring 207頁

指輪の形は始めも終わりもないので永遠の象徴となることがある。

 

クローバー、クローバーの葉 Klee Kleeblatt 74頁

クローバーは成長力が非常に強い植物で、生命力のシンボル、そして復活のシンボルともなる。(中略)古くはしばしば墓の上に植えられたことから別離のシンボルにもなった(中略)四つ葉のクローバーは今日にいたるまで幸運のシンボルとみなされている。

 

靴、履物 Schuh 71頁

古代では履物は自由民の特権で、奴隷は裸足だった。それゆえ履物を脱ぐことは相手への畏怖と屈従を示す行為でもある。この意味でモーセが燃える柴の前で履物を脱ぎ地面に置く場面は、そこが聖なる場所であること、モーセに神の前で畏怖を表すように求められていることを示す(出エジプト3:5)。履物を脱ぎ相手に渡すことは古代イスラエルでは法的な行為で、請求権の放棄、あるいは取引の承認を意味した(ルツ4:7-8)。

 

足 Fuβ 7頁

古代文明では、生贄を捧げるものは、裸足でなければならなかったことが多い。裸足は人間と天地を結ぶシンボルであり、心を開き、神を受け入れることを示し、畏怖と謙遜のシンボルでもあった。

 

ライオン Löwe 211頁

ライオンは黄色で、光線の形をしたたてがみをもち、力強く、また古くから決して目を閉じないと思われてきたことから、太陽のシンボルとみなされた。 

 

ウサギ Hase 26頁

野ウサギは目を開けて眠るといわれたことから注意深さの象徴になった。  

 

象 Elefant  121頁

ゾウは賢い動物とみなされているので、よい方向へ人を導く先導者として楽園図にもよく登場する。

 

球 Kugel 64頁

球は宇宙の形の模型として古くから世界、宇宙、天界の完全性の象徴とみなされてきた。(中略)球形の宝珠は支配者のしるしとしてゼウス/ユピテルの持ち物となる。(中略)神の手の中では球はしばしば創造のシンボルとなり、その際様々な色の球がさまざまな領域を示す(たとえば青ー天、緑ー大地)。宝珠としての球は支配者のシンボル、現世の権力のしるしで、その場合ほとんど完全な球形であることから世界の象徴、およびその命名者となった。

 

手 Hand 136頁

ヘブライ語jadという言葉が「手」と「力」を同時に表したことから、手は神の力を表す言語上および形象上のもっとも重要かつもっとも古いシンボルになった。しかし、同時に神の約束、神の干渉を表すシンボルでもある。(中略)神の力はたいてい蜘蛛の中の一本の手のイメージで描かれる。カバラの伝統によれば左手は正義(王権)、右手は慈愛(祝福の手)を表す。右手と左手はその他にもいろいろの重要な象徴性をもつ。覆い隠した手は古い習慣ではへりくだりを表す身ぶりである。謁見のさい、贈り物を受け取るため、または敬意を表すために皇帝や高位の者に近づくときは両手を覆う。 

 

引用文献

 ヒルデガルド・クレッチマー『美術シンボル事典』2013年 大修館書店